Learning Design Lab. ラーニング デザイン ラボ
#専門家に聞く

宇宙に一つしかない“この自分”を学ぶこと

藤田一照(曹洞宗僧侶)

いま教育業界では「探究」という言葉が頻繁に使われていますが、古くから仏教の世界には「参究」という概念があります。その意味は「事象を客観的に外側から知るのではなく、それそのものに参入して内側から究めること」。そのような“科学的な学び”とは大きく異なる学び方のことを『オーガニック・ラーニング』と名付けているのが、曹洞宗僧侶の藤田一照さんです(以下、一照さん)。研究者から一転して29歳で得度して以降、お寺を持つことなく一僧侶として参究を続けてこられた一照さんが、どのように「学び」を捉えているのかについてお話を伺いました。

― はじめに、一照さんは「学び」をどう捉えているのでしょうか?

なぜなのか明確な理由はよく分かりませんが、子どもの時から「この世に生を受けて、自分の名前と身体が与えられて、その人生には始まりと終わりがあって、その長い道のりを終点に向かって自分の身体に乗ってドライブするなら、できるだけ楽しいドライブでないともったいない」という感覚があったんです。そして私自身の場合は、何かが「分かった!」と思うような時に楽しさを感じる人間だと自覚していたので、どうせなら「学び」をメインに生きていけたらといいなと思ってきました。

― そのような「学び」に対する強い関心への自覚はいつ頃からだったのでしょうか?

思い当たる節があるのは、10歳の時の体験です。故郷の愛媛県で、夜に自転車に乗って星空を見た時に、突然、世界がそれまでと“全く”違って見えるようになったんです。「自分が生きていることには深い謎がある。その謎のことを自分自身は何にも分かっていない!」ということが“分かった”瞬間だったんです。心理学上の概念で、今まで全く理解できなかったことが突然できるようになる瞬間を指す、いわゆる「アハ体験」みたいなものですね。

Photo by Takumi Taniguchi

そこから、世の中の謎を追求する「学者」という仕事に興味を持ち、初めは宇宙物理学に興味を持ちました。大学に進む頃には哲学に興味を持って入学し、その後にはもう少し科学的なアプローチをしてみたいと思って心理学に進みました。

ですが、科学というものは、実験や調査をして多数のデータをもとにして真理を導くものなので、10歳の時に抱いたような「この自分という、宇宙でたった一つだけの不思議な存在のことを知りたい!」という関心とは大きなズレがあったんです。自分を含んではいるけど“抽象的な自分一般”ではなく、“この具体的な自分”を具体的なままに知るというのは科学の範疇を超えているんですよ。それで、自分の専門分野を学ぶエネルギーがあまり湧かなくなっていろいろなことに首をつっこむうちに、ある漢方医学の先生に出会いました。弟子になりたいと伝えると、「鎌倉にある円覚寺の宿泊坐禅合宿で修行をするのが条件」と言われたんです。

初めての坐禅は、ただ脚や腰が痛いだけで、眠いし、自分は一体どうしてこんなことをやっているのか分からなくなりました(笑)。ですが、教えられるままに坐っているうちに「あ、僕がもともとやりたかったのはこれかもしれない!」と思うようになっていきました。あの10歳の時の星空体験と坐禅の体験がつながって、なんだかとても懐かしい感じがしたんです。

円覚寺居⼠林接⼼に参加した時の様子(一照さんは一番後ろの列の左から四番目)

― いろいろな学び方がある中で、それは仏教でしか学べないことだったのでしょうか

先ほども言ったように、それまで私がやっていた「科学的な研究」では、客観性がもっとも大事で、大量のサンプルから数量化したデータを取り出して、それに統計的な処理をかけて一般的な法則を見つけていこうとします。そうやって主観性とか偶然性を排除しようとするのです。つまり、できるだけ多くの「n(対象者)」数に適用できる理論を探っていきます。でも、私が知りたかったのは、宇宙で一例(n=1)しかない「この自分」なので、科学的な方法ではもともと扱えないものなのです。

「研究」とは、自分とは別な第三者的な対象を間接的に調べることだとすると、仏教の「参究」とは、第一人称の自分のことを直接的に掘り下げることです。参研の“参”は、「参与する」「参入する」の意味。つまり、“私”が“私自身“に直接参与的に観察して、探究するということです。私がもともと知りたかったことを知るには、この「参究的なアプローチ」でないと辿り着けないと気がつきました。

それと、初めて参加した宿泊坐禅合宿で、朝から晩までみんなと同じような生活をしてみて、「なるほど、雲水さん(修行僧)というのは、一日中学び続けているような生活なんだな」と直感的に思いました。老師からも「坐禅をしている時だけが修行ではない。生活全体が学びになっていないとダメだ」と言われたんです。私が学生時代に研究対象にしていた赤ちゃんの学びのように、歩く時も、ご飯を食べる時も、生活の全てから学ぶというのが実は仏教の修行なのではないかと思ったんです。

修行僧は研究者と同じで、自分の好奇心の赴くままに参究を続けることが許される存在というか、社会にいるけどどこにも属していない自由な生き方だと思い、少し迷いましたが大学院を中退して禅の修行僧になりました。

安泰寺での得度式の様子(当時29歳)

― それでは「仏教の学び方」について、もう少し具体的に教えてください

仏道における学びの基本は、「戒・定・慧(かい・じょう・え)」と呼ばれる三学と言われます。

それぞれを簡単に説明すると、「戒」とは、生活倫理の事で、生活を整えて良い習慣を身につけ、修行の邪魔にならないように整理されたシンプルな生活をしなさいということです。但し、戒というのは誰かに強制されて行うものではなく、自分が自分自身に誓って自発的に守る努力をするものです。

一照さんが出家得度し、最初の修行生活を送った兵庫県安泰寺(曹洞宗)

次に「定」ですが、これは「禅定」とも呼ばれ、つまり「瞑想修行」のことで、身心を穏やかに保ち、乱れのない状態にすることです。

そして最後の「慧」は、智慧のこと。静かになった心で、自己と世界を正しく見ることを意味します。

まとめると、倫理的な生活を送りながら(戒)、瞑想をすることによって心が落ち着き(定)、混乱した心では見えなかったものが見えてきて、現実に即した生き方ができる(慧)ということです。

安泰寺で自給自足の共同生活を送っていた様子

― 一照さんは、仏教的な学び方について「オーガニック・ラーニング」という言葉を使って本を書かれていますが、それについて教えていただけますか

出来合いのテキストを読んだり、専門の教師から指導を受けながら決まった学習プログラムをこなすという「学校的な学び」ではなくて、人生の現実そのものを教科書にするとか、人生の全体をフィールドにするというような学びのことを私は『オーガニック・ラーニング』と呼んでいます。本当は「オーガニック」よりもっと良い呼び方が見つかったら変えてもいいなと思っているのですが、イメージをしているのは「オーガニック・ファーミング」、つまり有機農法みたいなものです。いつどこで、誰からどう学んだのかは分からないけれども、知らないうちに何かが身についてくるような学び方です。

私自身は今も「科学」は好きなのですが、科学には落とし穴があるとも思っています。科学の「科」は「科目」からきている言葉で、もともとの発想が「物事を分類する」ことにあります。

極端な例になりますが、人間の身体は本来は「一つのまとまり」です。臓器や血管が単体であるのではなく、全体として機能しています。しかし、病院では内科や外科、呼吸器科、消化器科などいろいろな科に分かれていて、それぞれの科だけに関係した薬を処方されます。はたして、病院からのバラバラな薬を全部飲んだら本当に治るのだろうか、と感じてしまいます。

有機農法の対極にある科学的な農業は、土壌の成分を窒素やリン酸などの要素に分けて調べ、それぞれに足りない要素を注入するアプローチです。科学というのは、デジタルで要素主義的なんです。

同様に、学校でも科目に分かれているので、「社会」で習ったことと「理科」で習ったことが統合されません。そんな風にバラバラな知識は本当には役に立たないですよね。

それに対して私が思う「オーガニック(有機的)」というイメージは、科目に分かれる以前の“つながりあった”状態です。一番オーガニックな学び方は、生まれてから1年半くらいの赤ちゃんの学び方ではないでしょうか。「学ぶ」という動詞もいらないぐらい、「生きる」こと全部が学んでいることになっている。

例えば、「足の関節の動かし方」や「体重の移動のさせ方」を学んでから「立つ」のではなく、ある日突然、今まで学んだことを全体的に統合して「立ち上がる」のです。このように、個別的には意識できない全体のまとまった精妙な働きを前提にして、アナログに学ぶプロセス全てが「オーガニック・ラーニング」と呼んでいるものです。

― オーガニック・ラーニングは、どのようにしたら実践できますか?

すべての人は、みんな赤ちゃんから成長してきたので、オーガニック・ラーナーだったわけですが、大人になると忘れてしまいます。そんな私たち大人が、改めて“それ”を理解する方法が一つあるとすれば、今の自分のやり方では絶対にできないことにチャレンジをしてみて、それができるようになるプロセスを体験することです。オーガニック・ラーニングは、思い通りにならなくて「絶望感を味わう」というプロセスが非常に大事です。

「人間はとにかく現状維持に腐心する動物だ」と誰かが言っていましたが、現状維持を打破せざるを得ない絶望感と、それを何とかできるようにどうしてもなりたいというパッションに火が付かないと体は動きません。そして、「こうなりたい」よりも、「こうじゃなくなりたい!」という強い思いの方が役に立つんです。単に憧れを持つことだけでは、自分をうまくごまかすことになってしまうので落とし穴です。

心底うんざりして、「本当に今のままでいいのか」と自分を突き放すと、そのうちなんらかの変化が起きます。青虫から蝶になるメタモルフォーシス(変態)と言っていいくらいのことが、私たちには起こり得ます。オーガニック・ラーニングは、そういう大きな変容のための学び方で、そのためには小さなメタモルフォーシスを起こすことを日々積み重ねるしかありません。「学ぶ」ことは「変わる」ことなので、逆に言えば、「変わった」ということは「何かを学んだ」ということでもあります。

― 「うんざり」がとても大切なのですね

そうですね。「うんざりのまま生きよう」という意味ではなくて、うんざりすること自体は悪いことではなく、良いことに展開する可能性もあると知っておいた方がいい。自分のうんざりしている状況が「今、変容する時じゃない?」と、ポンポンと肩を叩いて教えてくれるということがあるんです。

青虫が一度さなぎの中で溶けるような停滞の時があって、そこをうまく通り抜けると、青虫の時のシステムを乗り超えて「次の新しいシステム」が創発するみたいな感じです。すごく伸びる時と停滞する時のリズムが、私たちの命にもあるような気がしています。問いも答えも、「自分」の中ではなく、その時の「自分が巻き込まれている状況」の中にあります。

人生というドライブにおいて、そのままの現状を維持するか、現状にうんざりしていることを認めて何かを根本的に変えるかは、その時々で迫られているはずです。今の社会情勢も、まさに閉塞感のある状況。そういうことを踏まえてどうするのかということが、一人ひとりに問われているのだと思います。

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